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みんあ参加者
それは、西日がひどく暑い、八月のことだった。
とある書店で働いている私は、いつものように、本の陳列を行っていた。
静かだ、と思った。それもそのはず、今日は私以外の店員はおらず、今は客もいない。田舎寄りの町の、小さな書店なので、よくあることだった。静かなのは良かったが、天窓から差し込んでくる陽の光の熱さを誤魔化してくれるものが少ないというのは、どうにも辛かった。しかし、この店には、天窓以外に明かりがない。蛍光灯もあるが、かなり古い。電力消費が激しいため、外が暗くなって、天窓だけでは明かりが確保できない状態にならない限りは、つけてはならない決まりになっているのだ。床の木目を、橙の光が照らしていた。
新しく入荷された、数種類の本を陳列していると、ある本に目が留まった。
それは、私の好きな作家の、中でも一番好きだった小説だった。出版社が変わったらしく、表紙の絵やカバーの質感も私の持っていた本とは大きく変わっていた。挿絵も付け足されており、どうやら子供でも読みやすい文庫本に生まれ変わったようだ。
本を開き、パラパラと中盤から読んでみる。そうそう、ここで彼が、主人公に強い言葉で叱咤激励して、それに対して主人公が言い返す―――。
パタリ、と本を閉じる。知っているということが、いかにつまらないことなのか、はっきりとわかったからだ。私がかつて同じ理由で、持っていたこの小説を友人に軽々と渡したことも思い出し、余計憂鬱になる。
本の陳列が終わった。
私はため息をつきながら、レジのすぐ横にある休憩場所へ行く。休憩場所といっても、パイプ椅子と小さなテーブルがあるだけで、仕切りもないので、客がいれば丸見えだった。立ちっぱなしも嫌なので椅子に腰掛けた。ギシリ、と座面がきしむ。しかし、この場所でなにより嫌なのは、すぐ横にある窓から、外の暑さがそのまま入ってくることだった。窓は少し低いところに設置されていて、椅子に座ると、ちょうど顔のすぐ横に窓がある状態になる。カーテンは閉めてあるが、ガラスを通り抜ける熱気だけはどうにもならなかった。
早く閉店時間にならないかな――――買っておいたペットボトルのレモンティーを口に含みつつ、柱時計を見る。十六時。あと二時間もすれば、店を閉める時間だ。
外の蝉の声に耳を傾ける。ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、アブラゼミ。どれとも違う鳴き方だな、と思いよく耳を澄ませてみると、ヒグラシだった。
どのくらいそうしていただろうか。
外の音を聴いていると、遠くから、シャーッと勢いよく近づいてくる音があった。カーテンを開け、窓から外を見てみると、自転車だった。メガネをかけた、幼い少年が乗っている。
少年は、店の前で自転車を降りた。ガチャガチャという音を立てて自転車を止める。彼が鍵を引き抜いたときに、リン―――と音がした。
お客さんだ―――気を引き締め、また立ち上がる。パイプ椅子が、名残惜しそうにまたきしんだ。「いらっしゃいませ」
店に入ってきた少年に、お決まりの挨拶をする。返事はない。当然だ。そこまでがお決まりなのだから。
だが―――返事の代わりに、鈴の音がした。チャリン、と。音楽も人の声もない森閑とした店内に、高い音が響き渡った。
少年が、恥ずかしそうに、自分のポケットを見た。どうやら、自転車の鍵につけている鈴が、足を踏み出したときに揺れ、ポケットの中で音を出したらしい。
少年はしばらくその場で、鈴が鳴らないように試行錯誤していた。私は別に、その鈴の音は迷惑ではなかったし、他にお客さんもいなかったので、彼はそんなことをする必要はなかった。そう伝えようと思った。だが、なぜだが私と少年との間には、大きな壁が、違いがあるような気がして、言うのをやめた。
少しして、ずっとその場にいるのも恥ずかしかったのだろう、また少年は歩き出した。先程までとは違い、なるべく音がしないようにと、ゆっくりと。その様子に、私はちょっと残念な気さえした。彼の持っている鈴の音色は、どこか、涼しげな雰囲気を纏っていたのだ。ゆっくりと歩いてしまうことで、鈴の音は、よく耳を澄まさないと聞こえなくなってしまった。
彼は、文庫本コーナーの前で立ち止まった。いくつもの本の題名を注意深く見ながら、端からまたゆっくりと歩き始めた。私からは彼の足元は見えなかったが、一歩踏み出す度に鈴が、カラッと言って、教えてくれた。
少しすると、カラン―――と、一際大きな音がして、音が止んだ。
それから、一分ほど経つと、今度は鈴の音が、カラカラカラと、近づいてきた。私の視界に入った少年は、彼が興味を持ったらしい一冊の文庫本を、両手で大事そうに持ち、レジへと向かってきていた。
会計をするため、私はレジに立った。少年が、小さな手で、私に本を手渡す。
受け取って、そこで初めて気づいた。その本は、私がかつて持っていた、あの小説だった。
特に思うことがあったわけではない。新発売の本なのだから、私の思いに関係なく、欲しがって当然だ。
バーコードを読み込む。ピッ、という高い音が、耳に刺さった。
代金を受け取り、お釣りとレシートを手渡す。そして、本を手渡そうとして――――ためらった。
何をやっているんだ、と自分を叱る。私は今、店員として不可解な行動をしている。
だが、この小説を手渡すということが、それをしようとしている私のことが、許せなくなりかけたのだ。「・・・? あの―――」
「カバー」彼の心配そうな声を遮る。
「カバー、おつけしますか?」
「あ、はい。お願い、します」カウンターの下から、文庫本サイズのカバーを一枚引き出し、丁寧に包む。本全体が、茶色い紙に覆われ、何の本なのかわからなくなる。そこまでしてやっと、彼に本を渡すことができた。
少年は本を受け取ると、満面の笑みを浮かべた。そんなに、この小説を読みたいと思ったのか。
リンリン―――と、嬉しそうな音を立てて、少年が出口へ歩いて行く。
その背中を見て、なぜか、呼び止めなければと思った。「待って!」
あまりに大きな声が出た。自分でも、驚くくらいに。私の怒鳴るような声が店中に響き渡る。少年はビクリと反応して、振り向いた。
少年と目が合う。
彼と、以前どこかで会ったような気がする。
気のせいだ―――妄想を否定し、事実を刮目する。
それでも、私は彼に言わなければならないことがある。「あの―――」
「――――その本。大切に、してね」
「? は、はい・・・大事にします」少年は、不思議そうな顔をした。なぜ私がこんなことを言ったのかなど、彼は知るよしもないだろう。だが、それで良かった。
「ありがとうございました」
店を出ていく背中に向かって、一礼する。いつもと同じ挨拶しか出てこないのが、今はもどかしかった。
また、静寂が訪れた。
天窓からの光は、徐々に弱まっている。
西日の暑さはもう感じなかった。
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