- このトピックには3件の返信、1人の参加者があり、最後に5月28日のとある書き込みに貴方に返信を頂いた私の感傷により2年、 4ヶ月前に更新されました。
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みんあ参加者
私には、どの宗教にも当てはまらない私なりの死生観があるから、今更何か宗教を信じることはしないけど
「信じるものは救われる」とは、あの言葉は、真理だと思う
キリスト教でも、仏教でも
信じれば、すべての罪は許されて、死後その信じた世界へ行けるのだから、生きるのが辛くならない
たとえ仏になれなくたって、修行を重ねて徳を積んだ人生は、無駄じゃないと思えるだろう生きている間のモチベーションになるのも確かだ
死ぬまでに神に奉仕をすることで、死後楽園に行くことができ、永久に幸せに暮らせる
死ぬまでに徳を積み上げることで、死後仏になることができ、一切の苦しみがない場所へ行ける
そのためなら生き続けられる、といった風に一つの救いを信じて、そのために生き続けられる
贖罪でも、修行でも、大して変わらない
他の宗教や、たとえ無宗教でも、何かしらの生きていく理由、信じられる何かはある生きることとは、生きていることの意味を、たった一つの救いを、信じることではないだろうか?
それが、私なりの死生観だみなさんはどう思うだろうか?
このあと私は眠ってしまうが
ぜひ意見を聞きたい -
みんあ参加者
そういえば、小説の中で、宗教家の登場人物が、面白いことを言っていた
「誰も、太陽が東から昇ってくると信じてはいません。知っているだけです。疑わしい、でもあってほしいから信じるんじゃないでしょうか」、とのこと。すごく感銘を受けたのを覚えている
ちなみに、このセリフがある、ヰ坂暁さんの「僕は天国に行けない」という小説。私の愛読書です。ストーリーやメッセージ性もすごく好きで、私がかなり影響を受けた作品なので、もし良ければ読んでみてください。
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5月28日のとある書き込みに貴方に返信を頂いた私の感傷ゲスト
貴方のお書きになりました、
主旨とは関係ないかもしれませんが。少し以前の、とある5月28日。
特に誰からも返信もらえるつもりなんかなくて、
ただ、謎レスする誰かへの違和感を一言、
?
って、自分がしたら。第三者の貴方様は、自分に義理も責任もないのに、
そんな自分にフォローレスしてくださいました。それをみた刹那。
利己的な感情ですが。
私は貴方のレスに、ある種の救いを感じさせて頂きました。
それをみた刹那。関係ないかもしれませんが、
こちらの文を読んで、
ふと、その時の事を思い出しました。利己的で冷淡な私は、そこに結果論的な恒常性は感じていませんが、
刹那的優しさは享受させて頂きました。あの時は、有難う御座います
一瞬だけ読んで下されば、
後は忘れて下されば幸いです。
自分にも貴方にも、重いのはつらいので。泡沫の夢と思って頂ければ幸いにて。
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5月28日のとある書き込みに貴方に返信を頂いた私の感傷ゲスト
失礼しました、
5月28日は私の書き込み日時でなく、
貴方から返信を頂いた日時です。
訂正します。
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