- このトピックは空です。
-
投稿者投稿
-
-
どこかのだれか
ゲストこんばんは。日本のどこかに暮らす高校2年の女です。
私は高校を卒業したら死のうと思っています。
そう決めたのは中学3年の頃でした。
あと13ヶ月。
日に日に体調は悪くなって、学校で元気に振る舞うのもかなり辛くなってきました。
あと少し、あと少しだけ。
そう思って毎日を耐えています。 -
どこかのだれか
ゲスト何だか全てを吐き出したい気分なので、私の人生を振り返って書き連ねてみようと思います。
-
どこかのだれか
ゲスト文章を書くのが好きなだけあって、どうしても長くなってしまいました。どうやら2000字も書いていたようです。これを読むような物好きはいらっしゃらないと思いますが、折角書いてしまったので、一応。
-
どこかのだれか
ゲスト私の人生は本当に色々なことがありましたが、側から見れば恵まれた暮らしをしていると思います。
親は医療関係者でお金に困ってはいないし、中学受験までさせてもらって中高一貫のレベルの高い学校に入れてもらいました。
でも、なんだかずっと孤独だったんです。
私が物心ついた頃にはすでに両親の仲がすこぶる悪く、毎日ように喧嘩をしていましたし、毎晩のように私は母の愚痴を聞いていました。小学校に入ると家庭内別居が始まり、万が一にでも父会ってしまわないように上階の物音に常に気を配りながら生きることになりました。
小学校では嬉しいことに友達は多くいましたが、成績が良く、常に100点満点を期待される生活は私にとって辛いものでした。90点を取ったらみんなが離れていってしまうのではないかと常に不安で、全てを完璧にこなせるように神経を集中させていました。しかし、それは気に食わなかった担任は私をいびり始めました。でっち上げでクラス全員の前で教室の角に詰められながら怒られたり、テストでミスをすれば「猿も木から落ちるのね。」と言いながらクラス全員に晒されました。
それと同時に、とある女の子にも意地悪をされるようになりました。物を取られたり、壊されたり、ある時には蹴られたり。少々強気な子だったので、私の友達も逆らえず一緒に私をいじめ、のちに「ごめんなさい」と泣きながらずっと頭を下げられました。私はいじめられるよりも謝られる方が何倍も苦しかったのを覚えています。
こんな環境にはもう居たくない。そう思って私は、母に中学受験をしたいとだけ伝えました。母は理由も大して聞かず賛成するのみで、すぐに塾に入れてくれました。
様々なストレスや生活が一気に変わった事から、私は強迫性障害らしきものを発症しました。1日に何十回も、明日の持ち物を確認するようになりました。「強迫性障害らしきもの」と言っているのは、精神科にかかったことがなく、正式な診断がおりていないからです。家庭内別居中の父は、医療関係者であるにも関わらず、風邪薬や胃腸薬を「予防」として常飲するような、間違った使い方をしていました。父が嫌いな母はそれによって薬が嫌いになり、精神科にかかる事を許してくれなかったのです。代わりに、見様見真似で行動認知療法を試してきました。1番やってはいけない事です。もちろん悪化しました。「拗れた」の方が近いかもしれません。私の頭の中に、もう1人の人間が生まれたのです。多重人格というと少し違うかもしれません。いつでも望めばお話ができるような、自分とは全く違う人間が頭に住むようになりました。私はその人に頼んで持ち物を一緒に確認してもらう事で、どうしようもない不安感と母の叱責から逃れることに成功しました。
受験は見事に第一志望に受かって、頭の良い中高一貫校に入ることになりました。周りの子も先生も皆賢くて、尊敬できるような人にも出会う事が出来ました。コロナ禍でしたが友達も出来、楽しい学校生活を送っていました。しかし、どんなに楽しい気持ちで過ごしていても、心のどこかにある不安感と拗れた抑うつ感が消える事はありませんでした。そしてそれらはゆっくりと、確実に私を支配していきました。
中学3年の夏、その当時私は実力がないながらも部活を前に立って進めていました。私の代は同輩がいなかったのです。正式に言えばもう2人居たのですが、兼部やらやる気の問題やらであまり頼る事は出来ませんでした。自分の不甲斐なさや後輩に対する申し訳なさ、顧問との関係など、様々な事が重なって、それまでゆっくりと進んでいた症状が一気に重くなりました。体が怠くて座っているだけで気付けば寝ていたり、タガが外れたように過食をしたり、毎晩のように飛び降りる妄想をしたり。それでも私は「完璧」にとらわれる事がやめられなくて、いつの日か自分の元から皆がいなくなってしまうその時が怖くて、学校にいる間や母と家で話す間は笑顔で明るく接していました。うつ病なのではないか。そう思ってネットのチェックリストを行うと、「中〜重程度。すぐに受診を。」との文字。私が病院にかかれるはずがありませんでした。母との関係が拗れる事は、私にとって死を意味する事だったからです。
さて、今は高2も終わろうとしているところ。中3よりもかなり酷くなり、今はなぜ自分がこうも毎朝起き上がって笑顔で母と話し、学校に行って帰ってきているのか不思議で堪らないほどです。本当に気合いだけで何とかやっています。
高校生が終わったら死のうと決めたのは、1番にはまず、大学に行けば交友関係がある程度切れ、私が死んでもあまり騒ぎにならないから。そして第2は、部活の存在です。高校生になって同輩も多く入っては来ましたが、以前私が居なければ運営はかなり厳しい状況です。中3の頃、あれだけ不甲斐ない姿を見せたにも関わらず慕ってくれている後輩たちをどうしても置いて行けないのです。
あと13ヶ月。きっと、あと少し。あと少しの辛抱なのです。
-
-
投稿者投稿